思いを込めた金継ぎ

金継ぎの急須

 ある日曜日の朝、友達からのLINEに気づいた。それは、今NHKで金継ぎの番組がやっているよというものだった。急いでつけたけれど半分終わっていたので再放送を録画し、先ほど見終えた。その番組がこちら。

「Dear にっぽん」 - NHK
「思い出つなぐ金継ぎの技〜石川・山中温泉〜」 - 「Dear にっぽん」 壊れた器を修理する技法、金継ぎ。石川県山中温泉に全国から依頼が殺到する専門工房があります。器に込められた思い出まで蘇らせる-金継ぎの不思議な力を見つめました。 ...

石川県の山中温泉の、金継ぎ専門工房の金継ぎ職人、八木さんのお話。食器に込められた、依頼者それぞれの「思い出」を治すという。気になった方はそれぞれで検索してみてほしい。

 話が少しそれるが、以前、食器をギフトで贈ることの意味について、長らく思考を巡らせていたことがあった。食器のギフト需要がなくなっているといわれる今日。かつては結婚式の引き出物、さまざまな儀式のお返しとして使われていた食器なのに、どうしてだろうか。食に興味関心がなくなったわけでもないのに。

もちろん画一的なデザインが好まれない、5枚1組というセオリーがそぐわない、会場でもらうには重い、などの理由は思い浮かんだ。一見もっともらしい理由だが、それらはある程度解決できることである。そしてもちろん、マイナスなことだけではなく、「贈る良さ」にも考えが行きついた。

 食器を贈ることは、お祝いごとのその瞬間とそこから続く、毎日をも彩るということ。また、食器との思い出は、はるか先まで記憶に残るということ。贈り物か自分で買ったかに関わらず。

思い出してみてほしい、小さい頃の思い出を。楽しい食卓の思い出、ごはんの思い出。私がぼんやりと覚えているのが、おばあちゃんと行った近所の公園で開けたアルミのアニメのお弁当箱(陶磁器ではなかったが)。

箸やお茶碗が小さくなれば、サイズアップして好きな柄を買ってもらう。兄弟で大きさ違いの柄を揃えたり、洋服と違ってお下がりというのはあまりないから、新しい自分だけのものを持つ喜びでウキウキする。

自分が子供の頃の思い出だけではない。今現在は子供が高校生になり、お茶碗をどんぶりサイズに変えてあげないと、という嬉しい悩みもある私。

写真アルバムの何気ない日常の食卓の中に、そんな思い出も見つかるかもしれない。食器とは、そんな幸せな記憶の中にあるものだという確信が、私の中に生まれたのだった。

 そのことを思い出しながら見ていると、金継ぎはそんな思い出を治す、大切な方法なのだと思えてくる。だからこうやって各地から、家族の思い出をのせた小包が八木さんの元へと届き、継がれてまた、旅立っていく。

VTRに登場した何人かの依頼主の思いはさまざまなのだけれど、八木さんの一言、「思いは目に見えないが、金継ぎすることで目に見える」という言葉が印象的だった。

お子さんが割ったうつわを金継ぎに出した依頼主は、「割れはあの子が割った模様だから」と言う。割れだと思えば悲しくなるが、模様だと思うと、激しいものこそ愛おしい成長の道筋に見えてくる。

 余談だがこの依頼主たちのひとりが私の高校の同級生で、あまりの偶然に驚きつつ、懐かしい彼女の変わらない笑顔と出雲弁に心がなごんだ。彼女は、両親が新婚旅行で手作りした思い出の湯吞を継いでもらうよう依頼していた。金継ぎされて返ってきた湯吞を見て、「縁があってまた戻ってきた」とお父さんがおっしゃった。

出雲の人は本当によく縁という言葉を使うのだが、聞いていた私もさっそく使う。

なにかの縁に導かれてこの番組を見たのだと。

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