日日是好日 「お茶」が教えてくれた15の幸せ

おだやかな菊日和。今日はこの本を紹介せずにいられない。何かに迷ったり、これでいいのかなと考えている、まぁまぁの年齢の大人たちにおすすめしたい一冊。

 今年のはじめ、お茶の話題で、ある人とLINEのやりとりをしていた。

「松風 まつかぜ」という言葉がある。それまでてっきりお菓子の名前だと思っていた私。実は茶道において、釜の湯が沸くまでの水の音の違いが六段階あり、すべて違う言葉で表すのだが、その段階の一つを松風と表す。風が松の林を抜ける時の音を例えて言い、シュンシュンと音を立てる松風の状態が一番お茶に適した温度なのだそう。そんなことを初めて知り、お茶ってなんて繊細なの、すごいと感じた、というようなことを話したのだった。

そこでこの「日日是好日」の映画を勧められたのだけれど、忙しいことを理由に見るのを後回しにしていた。夏になり、仕事を辞めて時間ができたのでようやく重い腰を上げ、続いて文庫本も読み終えた。初版は平成14年に出版されたそうなので、世の中の皆さんに比べてずいぶんと遅い読了である。

 簡単にあらすじを紹介すると、作者の森下さんが、25年に渡る「お茶」のお稽古の中で感じたことが描かれている。お茶の作法は奥が深く、また季節によってもお点前が変わる。何のためにやっているのだろう、形ばかりでよく分からない、作法を忘れてしまうというジレンマを超えて、ついに、手が勝手に動き出すような瞬間や、自然と一体になるような瞬間が訪れていく、というようなストーリー。私の語彙力ではなんだか感動に伴わない稚拙な紹介になってしまうかもしれないが…頑張って綴ってみる。

 まずは、お茶って何が楽しいの?と作者も友達に聞かれることがあったというが、その通りである。優雅な趣味の一つという印象かもしれない。そんな人にも楽しいお茶の世界を教えてくれ、読むうちに、意外にもかけ離れた世界ではなさそうだと思えてくる。けれど、すばらしいのでどうぞ始めてくださいという押しつけがましいものでもない。良くも悪くも、お茶のエッセンスが身体にしみわたっていくには十年単位、いや一生勉強という時間の流れらしく…それにはさすがに恐れおののいてしまう。

作者にとっては、その題名のとおり幸せを教えてくれたのが「お茶」だが、私を含め読み手それぞれが、何かを通して幸せを見つけられればよいのである。

 前置きが長くなったが、お茶が教えてくれる幸せで私にも共感できることはいくつもあった。けれどひとえには、「季節を五感で感じること」である。作者も、以前までは季節は暑いと寒いの二つしかないと感じていたというが、そういう人はきっと多いと思う。

日本にははかつて二十四節気という暦の数え方があり、季節も実に二十四にも分かれていた。立春とか冬至というのがそれであり、お茶の世界でも二十四節気で季節が巡る。

 身の回りを見渡してみよう。都会にいると感じにくいのだが、実際に、1週間前と今日ですら季節は変わる。入道雲から鰯雲に変わったなと空を見上げる、心地よい風を頬に受ける、落ち葉がカサカサ鳴る、かぼちゃを買う、セーターを出す。

今まで単なる生活の一片だと思っていたことは季節を感じること。目に見えるものは同じだけれども、感じ方でたちまち違うものに変わる。

また、こうとも言っている。それは「今を感じること」だと。

元来、私はそうとは真逆で楽な方へ楽な方へ、嫌なことは先延ばしにと生きてきた。今を見つめることが出来なかった。うつわの仕事では旬や季節感を大切にしてきたのにだ。けれど、自分の生活のなかで向き合う「今」を大切にするという新しい視点を持てたことは、遅まきながら収穫だった。ついでに「丁寧な暮らし」もできればいいのだが、残念ながら手先の器用さやマメさはそうそうに上向くものではないのが悲しいところである。

 そしてもう一つ。以下、少し引用させていただこう。

世の中には「すぐわかるもの」と、「すぐにはわからないこと」の二種類がある。すぐわかるものは、一度通り過ぎればそれでいい。けれど、すぐにわからないものは、フェリーニの『道』のように、何度か行ったり来たりするうちに、後になって少しづつじわじわとわかりだし、「別もの」に変わっていく。そして、わかるたびに、自分が見ていたのは、全体の中のほんの断片にすぎなかったことに気づく。

「お茶」って、そういうものなのだ。

日日是好日 森下典子 新潮文庫

 作者にとってのお茶が、今の私にとっては金継ぎとこのブログ。

 金継ぎを始めたのは、器に関わるということのほかに、自分が一番苦手な、ひとつのことに向き合うことをしてみようと思ったから。無心になりながら、研ぐ。塗っても待たなければならない。2年経っても点と点がつながらないなんて以前書いたけれど、なんだか作者が歩んできたお茶の道に似ている。2年なんてほんのひよっこか。

 このブログもそう。ExcelWordとは異なる、WEBの分野はほぼ初心者で、半年前までWordpressという言葉さえ知らなかった私が、インターネット上にある情報を頼りに今日まで続けている。振り返って例えるなら、登山などしたことがないのに、いきなり富士山に登るようなものだった。いくつも登山道のどれが易しいかも分からず、少し登って壁にぶち当たって下山してくる。また隣の道から、またその隣の道からと登るので、一向に上には進まない。が、時々道が合流するポイントがあって、ああここで交わるのね、なんて小さく喜びながらやっている。雲の先にある遠い頂上を見上げながら、いつか分かる時が来るのだという安心感と、もがき続けていていいんだと許されたような気持ちになる。

 もっというと、小休止をしている今の自分。仕事で使っているわけでもない、いつ役に立つとも立たないとも分からないWEBの勉強は満足感はあれど、仕事ではない。これでいいのかなと迷ったり焦ったりすることもある。だけれど、いつか開ける時が来るのだと信じてもがき続けていく、目の前のことを一生懸命やるのみなのだー。

 上の引用で触れられている、『道』というのは映画のことである。20代の時に見て分からなかったものが30代で分かるようになったり、見過ごして来たシーンで号泣したり‥とのこと。

私にとってはそれがこの本で、20代で読んでも分からなかったと思う。読むべきタイミングで読まされたと思わずにはいられない。結果的に、ずいぶんと遅い読了でよかったのだ。

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